上野国 前橋藩

前橋藩について

前橋藩:家門 17万石 Wikipedia

藩主家の変遷:豊臣政権下の天正18年(1590年)徳川家康の関東入封に伴い家臣の平岩親吉が厩橋に3万3000石をもって封ぜられた。

江戸幕府開府の翌年、慶長6年(1601年)に平岩家は甲府藩に転封となり、同じく譜代大名重鎮の酒井家が武蔵川越藩より3万3000石をもって入封した。しかし前橋領内や前橋城は利根川の浸食によってたびたび損害を受け、寛延2年(1749年)、9代藩主・忠恭は老中首座となったのちに転封を画策、同石高でも実入りが多いと考えられた播磨姫路藩に転封となった。

入れ替わりに姫路より越前松平家の松平朝矩が15万石をもって入封した。しかし城の損害は続き、明和4年(1767年)、前橋城の本丸城地が完全に川に浸食されるに至り、藩主・朝矩は前橋城の放棄を決定、武蔵川越城に居城を移転することにしたため、以降は川越藩と呼ばれる。これにより前橋城は川越藩の飛び地となり、城は全壊したあと長く廃城の状態が続いた。

幕末になって時の川越藩主・松平直克に念願の前橋帰城が許された。慶応3年(1867年)に新・前橋城が成り、川越藩の石高17万石はそのままで居城を前橋城に移転した。これによって以降は前橋藩と呼ばれるが、間もなく大政奉還・王政復古の大号令となる。

 

居城:群馬県前橋市 前橋城(厩橋城) Wikipedia

城郭構造 :輪郭式平城

天守構造 :3重3階(非現存)

築城主 :長野方業、松平直克

築城年 :15世紀末、文久3年(1863年)

主な改修者 :酒井重忠

主な城主 :上野長野氏、上杉氏、平岩氏、酒井氏、越前松平氏

廃城年 :1871年

遺構 :石垣、土塁、堀

指定文化財 :なし

 

幕末藩主:松平直克(なおかつ 当時27歳)

戊辰戦争への対応:戊辰戦争が始まり、徳川慶喜が謹慎すると、前橋藩はいち早く新政府へ恭順の意を示した。慶応4年(1868年)3月、上野全土の鎮撫を務め、続いて会津藩と戦った。

前橋藩訪問記

2020年2月22日 日帰りで群馬県史跡巡り

保渡田古墳群→上野国分寺跡→国分尼寺跡→総社神社・宮鍋神社→前橋城跡→岩宿遺跡

 

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●前橋城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

前橋城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「台地先端」

●地理院地図 ベクトルタイル地形分類

 

地理院地図 治水地形分類図更新版

 

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