播磨国 明石藩

明石藩について

明石藩:親藩 8万石 Wikipedia

藩主家の変遷:明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで着目した。

立藩は池田氏が鳥取藩へ転封となった1617年(元和3年)である。信濃国松本藩より小笠原忠真が10万石で入封したことに始まる。忠真はそれまでこの地方の拠点であった船上城(ふなげじょう)を廃し、明石城を建設した。

小笠原家(1617年 - 1632年)→松平(戸田)家(1633年 - 1639年)→大久保家(1639年 - 1649年)→松平(藤井)家(1649年 - 1679年)→本多家(1679年 - 1682年)→

天和2年(1682年)、越前国大野藩より松平直明が6万石にて入封し、越前松平家の支配が幕末維新まで続いた。

 

居城:兵庫県明石市 明石城(喜春城、錦江城) Wikipedia

城郭構造:連郭梯郭混合式平山城

天守構造 :なし(天守台はあり)

築城主 :小笠原忠真

築城年 :1618年(元和4年)

主な改修者 :松平直常

主な城主 :松平氏(越前系)

廃城年 :1874年(明治7年)

遺構 :櫓、石垣、堀、移築門

指定文化財 :国の重要文化財(巽櫓・坤櫓)国の史跡

再建造物 :塀

 

幕末藩主:松平 慶憲(よしのり 当時42歳)

戊辰戦争への対応:幕末には御家門の立場上佐幕派であった。鳥羽・伏見の戦いには幕府方として参陣したが遅参し、大坂城にあった将軍徳川慶喜の救出が出来ず明石に引き返す。明石城に官軍の山陽鎮撫使が進軍したため、本家筋の前福井藩主松平春嶽の取り成しで恭順の意を表し城を明け渡す。官軍に従軍し姫路まで進軍する。戊辰戦争に参戦し藩兵を越後方面へ派兵する。

 

明石藩訪問記

2018年11月2日訪問

岡山→赤穂城→明石城

 

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●明石城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

明石城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「台地先端」

●地理院地図 ベクトルタイル地形分類

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)

画面4分割で明治から現在までの地図を比較してみる。

明治期は明石駅周辺も田んぼが多く、海に近い砂丘微高地に市街地が広がっている。

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