伊予国 松山藩

松山藩について

松山藩:親藩 15万石 Wikipedia

藩主家の変遷:慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにて東軍徳川氏に味方した加藤嘉明(外様)が20万石で立藩。→寛永4年(1627年)、出羽国上山藩より蒲生忠知(外様)が24万石で入封。→寛永12年(1635年)、伊勢国桑名藩より松平定行が15万石で入封し、以後、松平(久松)家の領国統治が幕末まで続いた。

※元禄16年(1703年)2月、江戸松山藩邸では、幕府からの預かりを命じられていた赤穂浪士10名が切腹。

 

居城:愛媛県松山市 松山城(金亀(きんき)城、勝山城) Wikipedia

城郭構造:連郭式平山城

天守構造 :連立式層塔型3重3階地下1階 (1852年 再)

築城主 :加藤嘉明

築城年 :慶長7年(1602年)着手

主な改修者 :松平勝善

主な城主 :加藤氏、松平(久松)氏

廃城年 :明治6年(1873年)

遺構 :天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、堀

指定文化財 :重要文化財 (大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓など櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門など門7棟、筋鉄門東塀など塀7棟) 国の史跡

再建造物 :小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門、艮門東続櫓など

 

幕末藩主:松平定昭(当時22歳) ←伊勢津藩主・藤堂高猷(たかゆき)の五男

戊辰戦争への対応:鳥羽・伏見の戦いでは定昭と藩兵は梅田方面の警備に当たっていたが、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知り帰国する。この戦いにより朝敵として追討され、城内では先代藩主勝成の恭順論と定昭の抗戦論が対立するが、1月27日に戦わずに城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれた。5月12日、松山藩は財政難の中15万両を朝廷に献上し、藩主定昭は蟄居して先代藩主である勝成を再勤させる事や家老などの重臣の蟄居・更迭などを条件に赦され、5月22日に松山城が返還された。

松山藩訪問記

2019年4月21日

サザンオールスターズコンサート当日

大洲城跡→おはなはん通り・臥龍山荘→湯築城跡→松山城跡

2008年5月3日

四国5泊旅行の初日に道後温泉泊。翌日ロープウェイで松山城見学。

道後温泉本館には、自分が宿泊しているところから、浴衣のまま、わざわざ入浴しに行く人が多く、周りもにぎやかで楽しいところだった。

 

●フォトギャラリー 2019.04.21 ※クリックで拡大

●松山城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます)

松山城周辺の地形を調べてみる

松山城は、松山平野の北東、沖積扇状地上の勝山と呼ばれる小さな丘陵に位置する。

お城地形区分は「孤立丘陵」

松山の歴史、地理、街並みはこちらのHPがかなり詳しい →まちあるきの考古学

 

●地理院地図 土地条件図(数値地図25000)

 

●地理院地図 地形図+色別標高図で周辺地域の地形を見る

 

●J-Shis Map 微地形区分

 

●シームレス地質図