越前国 丸岡藩

丸岡藩について

丸岡藩:譜代 5万石 Wikipedia

藩主家の変遷:丸岡は戦国時代、織田信長配下の勇将・柴田勝家の養子・柴田勝豊が治めていた。勝豊が賤ヶ岳の戦い後に病死すると、青山宗勝・青山忠元父子が入った。青山氏は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後に改易された。

代わって越前福井藩に入った結城秀康の重臣・今村盛次が2万5000石で入ったが、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれて流罪とされた。

その後の慶長18年(1613年)5月、本多成重が4万石を与えられて入り、秀康の後を継いだ松平忠直を本多富正と共に補佐した。寛永元年(1624年)、忠直が豊後国に流罪とされると、成重は4万6300石に加増され、福井藩から独立した大名として取り立てられた。その後本多家は元禄8年(1695年)に幕命により改易されてしまった。

代わって、戦国時代のキリシタン大名で有名な有馬晴信の曾孫・有馬清純が越後糸魚川藩から5万石で入部して、以後幕末維新まで8代続いた。

 

居城:福井県坂井市丸岡町 丸岡城(霞ヶ城) Wikipedia

城郭構造:連郭式平山城

天守構造 :独立式望楼型 2重3階(寛永年間 木造 現存)

築城主 :柴田勝豊

築城年 :天正4年(1576年)

主な城主 :柴田氏、本多氏、有馬氏、青山氏

廃城年 :明治4年(1871年)

遺構 :現存天守、移築門、石垣

指定文化財 :重要文化財(天守)

 

幕末藩主:有馬道純(みちずみ 当時31歳)

戊辰戦争への対応:藩主道純は早くから新政府軍への恭順を決めたが人質を要求された。その後警備や弾丸調達を命じられたが、出兵はせず戊辰戦争は終結。

 

丸岡藩訪問記

2016年10月22日訪問

越前国分寺跡(武生)→一乗谷朝倉氏遺跡→福井城→丸岡城と、急ぎ足の訪問。

丸岡城は現存最古の天守閣。

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

・丸岡城(現存最古の天守閣)

 

●丸岡城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

丸岡城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「孤立丘陵」

地理院地図 治水地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図