陸奥国 二本松藩

二本松藩について

二本松藩:外様 10万石 Wikipedia

藩主家の変遷:二本松は戦国時代まで畠山氏の所領であったが、天正14年(1586年)に伊達政宗が畠山氏を滅ぼして伊達領になる。

天正18年(1590年)7月小田原征伐後、二本松は会津の領主となった蒲生氏郷の領地となった。文禄4年(1595年)2月に氏郷は急死し、嫡子の蒲生秀行が跡を継ぐが、慶長3年(1598年)1月に下野宇都宮18万石に減封・移封となった。

代わって会津に入部したのは、越後春日山城主の上杉景勝であり、蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石で入った。関ヶ原の戦い後、景勝は徳川家康によって出羽米沢藩30万石に移封され、代わって会津から宇都宮へ移っていた蒲生秀行が60万石に加増されて入部し、二本松もその支配下に入った。蒲生氏は寛永4年(1627年)1月に継嗣が無い事を理由に会津領60万石を改易となり、その2月、伊予松山藩20万石から加藤嘉明が倍に加増された40万石で会津に入部した。

この時、嘉明の娘婿であった松下重綱が与力大名として下野烏山藩2万8000石から2万2000石を加増されて5万石で二本松に入部したことから、二本松藩が立藩した。

松下氏は寛永5年(1628年)1月に陸奥三春藩に移封となり、入れ替わりで二本松に入部したのは、加藤嘉明の3男・加藤明利であるが、その加藤氏も寛永20年(1643年)に改易となった。

その年8月2日、陸奥白河藩主であった丹羽光重(丹羽長秀の孫)が10万700石で入り、ようやく領主が安定し幕末維新まで続いた。

 

居城:福島県二本松市 霞ケ城(二本松城、白旗城) Wikipedia

城郭構造:梯郭式平山城

天守構造 :不明

築城主 :二本松満泰

築城年 :室町時代中期

主な改修者 :丹羽光重

主な城主 :二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏

廃城年 :明治5年(1872年)

遺構 :天守台、石垣、堀切

指定文化財 :国の史跡

再建造物 :箕輪門、附櫓

 

幕末藩主:丹羽長国(ながくに 当時33歳)

落城月日:慶応4年(1868年)7月29日

戊辰戦争への対応:奥羽列藩同盟に参加。周辺諸藩が次々と降伏。新政府軍が城下に迫り7月29日早朝から二本松戦争が始まるも、城内には老兵と少年兵しかおらずわずか1日で落城。訓練も受けていない二本松少年隊の悲劇があった。尚、藩主長国は落城前日に米沢藩に逃亡(←なんでだ!)。9月なり新政府に謝罪降伏し帰国を許された。5万石減封。

二本松藩訪問記

2016年12月17日

100名城スタンプを目的に2度目の訪問。

二本松少年隊の墓がある大隣寺にも立ち寄る。

2013年11月7日

出張の帰りに立ち寄り。

ちょうど日本一といわれる「菊人形」をやっていたが、そこには寄らずとにかく天守台まで頑張って歩く。箕輪門(正門)から急いで15分はかかったと思う。ひざ痛の身には辛かった。

2016年12月17日撮影
2016年12月17日撮影
2013年11月7日撮影
2013年11月7日撮影

 

●フォトギャラリー  2017.12.17 ※クリックで拡大

二本松少年隊の墓がある大隣寺

 

●フォトギャラリー  2013.11.07 ※クリックで拡大

 

●霞ケ城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可取得)

二本松藩霞ケ城周辺の地形を調べてみる

天守が山のてっぺんにあるけど、山裾の箕輪門から曲輪が配置されているので城郭構造は平山城。通常のお仕事は麓でやっていたであろう。

お城地形区分は「山地・丘陵地」。

二本松の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学

 

 ●国土調査 地形分類図

霞ケ城跡の東側や二本松駅周辺が「下位砂礫段丘」になっているが、下のJ-Shis微地形区分では「谷底低地」。砂礫からなる谷地か?

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●J-Shis Map 微地形区分

 

G-Banz 標高グラフ