駿河国 駿府藩(静岡藩)

駿府藩について

駿府藩:徳川本家 70万石 Wikipedia ※明治2年8月7日に成立した藩を静岡藩と呼ぶ

藩主家の変遷:駿河は戦国時代、今川氏の支配にあったが、武田信玄の駿河侵攻で今川氏が没落すると、甲斐武田氏対相模の後北条氏徳川氏の領地争奪の場となり、不安定な情勢が続いた。天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、徳川家康の支配下に入る。

天正18年(1590年)の小田原征伐で家康が武蔵に移封されると、駿河には豊臣秀吉の家臣・中村一氏が入る。

関ヶ原の戦い後、中村氏は伯耆米子藩に移封となり、慶長6年(1601年)に伊豆韮山より徳川氏譜代の家臣・内藤信成が4万石で入封し、駿府藩が成立した。

慶長11年(1606年)、内藤氏は近江長浜藩に移封され、替わって大御所となった徳川家康が、駿府城に入ったため駿府藩は廃藩となった。

慶長14年(1609年)、家康の十男・徳川頼宣が50万石で入封したことから、駿府藩が復活した。ただし頼宣は幼少の上、家康がなおも幕政を駿府城で執っていたことから、藩主とはいっても実際には権限はなかった。元和5年(1619年)、家康没後、頼宣は紀伊和歌山藩に移封され、駿府藩は廃藩となった。

寛永2年(1625年)、第3代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長が駿河・遠江・甲斐などに55万石で封じられ、駿府藩が再び成立した。しかし、忠長は乱行が目立ったことから、発狂したとして上野高崎藩に蟄居の身となり、父の徳川秀忠没後の寛永9年(1632年)に改易された。

その後駿府藩は廃藩となり、以後は幕府直轄領として幕府直属の旗本が駿府城代として赴任する駿河城番時代が続いた。

 

居城:静岡県静岡市 駿府城(府中城、静岡城) Wikipedia

城郭構造:輪郭式平城

天守構造 :不明(1589年築) 慶長1期(1607年再) 慶長2期(7階・1610年再) (いずれも非現存)

築城主 :徳川家康

築城年 :1585年(天正13年)

主な改修者 :徳川家康

主な城主 :徳川氏、中村氏、 内藤氏(松平氏)

廃城年 :1869年(明治2年)

遺構 :石垣、堀

指定文化財 :なし

再建造物 :巽櫓、東御門、坤櫓

 

幕末藩主:幕末は幕府直轄領

戊辰戦争への対応:慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争で徳川氏は明治新政府に敗れ、第15代将軍・徳川慶喜は朝敵となる。しかし徳川家存続が認められ、慶喜に代わって田安亀之助(徳川家達)を徳川氏の相続者とし、5月24日には駿河・遠江・陸奥等で70万石を与えられ静岡藩が立藩した。

 

駿府藩訪問記

2017年3月4日

静岡マラソン参加の前日の駿府城他静岡県の史跡を訪問。

静岡浅間神社、登呂遺跡、片山廃寺跡、掛川城、田中城・・・

 

3月5日の静岡マラソンは4回目で初めて晴れたとか。。 主催者の皆さん、ボランティアサポートの皆さん、沿道の応援の皆さん、ありがとうございました。気持ちよく走れました。!(^^)!

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

 

●駿府城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

駿府城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「低地扇状地」

静岡の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学

地理院地図 治水地形分類図(更新版)

 

●地理院地図 土地条件図(数値地図)

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

 

●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)

左は明治後期の地図。お城周辺の外側はまだ水田が広がっている。

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