美濃国 岩村藩

岩村藩について

岩村藩:譜代 3.0万石 Wikipedia

藩主家の変遷:岩村城は鎌倉幕府の征夷大将軍源頼朝の重臣加藤景廉の長男遠山景朝が築き、その子孫の岩村遠山氏が戦国時代に至るまでこの地を治めた。

戦国時代、当時美濃を支配下に置いていた織田信長は、元亀年間に敵対した武田信玄の領国・信濃との要衝にある岩村城の重要性を考えて、城主・遠山景任を一門衆として遇していた。やがて足利義昭との対立から各国に信長包囲網が敷かれると、岩村も元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦に伴ってその家臣・秋山虎繁(信友)に攻められることとなる。景任は懸命に防戦したが、不幸にもその最中に病に倒れ死去、岩村は武田軍の手に落ちた。

1575年(天正3年)、長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。

1582年(天正10年)、 本能寺の変後、岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。この時の城代となった森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。

関ヶ原後の慶長6年(1601年)、家康譜代の家臣・大給松平家・松平家乗が上野那波藩から2万石で入った。

寛永15年(1638年)に松平氏が遠州浜松藩へ加増移封されと、三河伊保藩より丹羽氏信が2万石で入った。

元禄15年(1702年)6月22日、丹羽氏は越後高柳藩へ減移封となり、信濃小諸藩より大給松平家・松平乗紀が2万石で入る。以後第4代藩主・松平乗賢時代に3万石に加増されて幕末維新まで続いた。

 

居城:岐阜県恵那市 岩村城(霧ヶ城) Wikipedia

城郭構造:梯郭式山城

天守構造 :なし

築城主 :遠山景朝

築城年 :1221年(承久3年)以降(鎌倉中期)

主な改修者 :河尻秀隆、各務元正

主な城主 :遠山氏、森氏、大給松平氏、丹羽氏

廃城年 :1871年(明治4年)

遺構 :石垣、郭、井戸、移築門

指定文化財 :県指定史跡

再建造物 :藩主邸

 

幕末藩主:松平乗命(のりとし 当時19歳)

戊辰戦争への対応:最後の藩主・乗命は、慶応3年(1867年)7月に奏者番に任じられ、12月に陸軍奉行に任じられた。しかし幕府の要職にありながら、慶応4年(1868年)2月に新政府に恭順している。

岩村藩訪問記

2019年4月12日訪問

岩村城跡岩村藩城下町(半分青いロケ地)→恵那峡→苗木城跡

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

岩村藩城下町(NHK朝の連続ドラマ「半分青い」のロケ地であった)

 

●加納城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

岩村城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「山地」

●地理院地図 地形図+陰影起伏図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図