尾張国 尾張藩

尾張藩について

尾張藩:御三家 61.95万石 Wikipedia

藩主家の変遷:尾張は慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い終結まで清洲城主・福島正則が24万石で支配していた。戦功により福島正則は安芸広島藩に加増移封された。

続いてこれも関ヶ原の戦いの戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉が入封(清洲藩、52万石)する。しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった。

代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、ここに尾張藩が成立した。

 

居城:愛知県名古屋市 名古屋城(金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城) Wikipedia

城郭構造:梯郭式平城

天守構造 :連結式層塔型5層5階地下1階1612年築 (非現存) 1959年再建(SRC造・外観復元)

築城主 :徳川家康

築城年 :慶長14年(1609年)

主な改修者 :名古屋城再建委員会

主な城主 :尾張徳川家

廃城年 :1871年(明治4年)

遺構 :櫓3棟・門3棟、庭園、石垣、堀

指定文化財 :国の重要文化財(櫓3棟、門3棟)

再建造物 :大小天守、正門、本丸御殿

 

幕末藩主:徳川義宣(よしのり 当時9歳)

実権者:前藩主徳川慶勝 ←会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の実兄

戊辰戦争への対応:藩内には佐幕派と勤王派がいて対立していたが、鳥羽伏見の戦い後、慶勝は佐幕派を処刑して藩論を統一した。さらに慶勝は近隣諸国に藩士を派遣して勤王を勧めた。2月からは北越、会津等各地に派兵。賞典禄15000石。

尾張藩訪問記

2017年7月24日訪問

100名城スタンプが目的で4回目の訪問。東門から入り、本丸の東南隅櫓、西南隅櫓、他に北側の深井丸周辺もゆっくり見学した。

2014年7月23日訪問

大相撲名古屋場所観戦の前に復元本丸御殿を見学。

2014年6月29日訪問

尾張一の宮真清田神社から国府跡、国分寺跡を巡って名古屋城に向かったが、開園時間を過ぎてしまいやむなくお堀を一周。

2007年5月3日訪問

名古屋には何度も行ってたけど名古屋城を訪れたのはこの日が初めてだった。この頃はまだお城の歴史とか立地条件には興味がなかったようで。。

2017年7月24日撮影 天守と小天守
2017年7月24日撮影 天守と小天守
本丸御殿と天守の復元図 見事!
本丸御殿と天守の復元図 見事!
2014年6月29日撮影
2014年6月29日撮影

 

●フォトギャラリー 2017.07.24  ※クリックで拡大

 

●フォトギャラリー 2014.07.23  ※クリックで拡大

 

●フォトギャラリー 2014.06.29  ※クリックで拡大

 

●名古屋城縄張り図

余湖さんのホームページより (お城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます)

尾張藩名古屋城周辺の地形を調べてみる

尾張藩名古屋城は濃尾平野の東に分布する台地(熱田台地)の西北端に位置する。

お城地形区分は「台地先端」。

 

●地理院地図 土地条件図 初期整備版

 

●地理院地図 都市圏活断層図

熱田台地の南先端には熱田神宮がある。

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

名古屋城南側の地名が、三の丸、丸の内と、いかにも城跡周辺らしくていい。

大繁華街の栄地区が名古屋駅から少し離れてお城の南側にあるのは江戸時代から続く城下町だったからだろう。

 

●旧版地形図との比較 今昔マップon the web((C)谷 謙二)

左は明治30年代の地形図。市街地がきれいに熱田台地上に形成されているのが分かる。その台地南端には熱田神宮が鎮座し、そこに江戸時代の東海道53次・宮宿があった。宮宿・七里の渡しが海に近かったのも旧版地形図でよく分かる。

※画像クリックで拡大  ↓下の地図へリンク

 

 

●国土調査 地形分類図

 

●J-Shis Map 微地形区分

 

●シームレス地質図

 

G-Banz 標高グラフ