出雲国 松江藩

松江藩について

松江藩:家門 18.6万石 Wikipedia

藩主家の変遷:豊臣政権時代、出雲は山陰道・山陽道9か国を領していた毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現島根県安来市)を政庁として出雲および隠岐の2国を経営していた。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移された。これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩(いずもとだはん)が立藩した。 忠氏は慶長9年(1604年)に27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲いた。吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため松江城を築城するとともにその城下町の建設を行った。慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立した。

寛永10年(1633年)、堀尾家は無嗣改易となり、代わって翌年若狭小浜藩より京極忠高が入部した。京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになる。

しかし京極家はわずか3年後に改易となり、寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政(越前松平家)が18万6,000石で信濃松本藩より転封。以後、出雲一国は越前松平家が幕末維新までこの地を治めた。

 

居城:島根県松江市 松江城(千鳥城) Wikipedia

城郭構造:輪郭連郭複合式平山城

天守構造 :複合式望楼型 4重5階地下1階(木造 1607年築 現存)

築城主 :堀尾忠氏

築城年 :1611年(慶長16年)

主な改修者 :京極忠高

主な城主 :堀尾氏、京極氏、松平氏

廃城年 :1871年(明治4年)

遺構 :現存天守、石垣、堀

指定文化財 :国宝(天守) 国の史跡

再建造物 :櫓、門、橋

 

幕末藩主:松平定安(さだやす 当時32歳)

戊辰戦争への対応:幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買った。結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備についた。

 

松江藩訪問記

2015年5月4日訪問

連休を利用して、岡山から鳥取、島根を旅行。帰りの時間が迫って、松江城は登って降りただけだった。次は100名城スタンプをもらいに行かなければ。。

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

 

●松江城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可取得)

松江城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「丘陵地先端」

松江の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学

●国土調査 地形分類図

 

●地理院地図 色別標高図