陸奥国 斗南藩

斗南藩について

斗南藩は、戊辰戦争に敗れ領地を没収された会津藩が明治2年(1869年)11月に再興を許された藩。翌年4月から旧藩士らが移住を開始したが、寒冷地の過酷な自然条件の中で苦しい生活を強いられた。
その後、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で斗南県となり、さらに9月に青森県に編入され、わずか2年足らずで斗南藩は消滅した。

斗南藩:譜代 3万石 Wikipedia

陣屋:青森県むつ市

藩主:松平容大(かたはる) ←最後の会津藩主松平容保(かたもり)の長男

(明治2年6月生まれ ※ん?、会津戦争籠城中に身ごもった子・・)

 

青森県メルマガあおもりより
青森県メルマガあおもりより

斗南藩訪問記

訪問も何も私の生まれ育ったところなんで・・

それにしても、高校まで地元にいても斗南藩とか会津藩とか学ぶ機会が全くなかったのはどうなんだろう。子供向けに特別講義で「郷土の歴史・地理」をやるべき、と思う。

以下の写真は2014年5月10日撮影。

下北半島のシンボル、釜臥山
下北半島のシンボル、釜臥山

 

●フォトギャラリー  ※クリックで拡大

・斗南藩陣屋跡(現円通寺)

・斗南藩士上陸の地

・柴五郎(藩士の子、後の陸軍大将)一家居住跡

「ある明治人の記憶ー会津人柴五郎の遺書(中公新書)」に壮絶な暮らしぶりが書かれている

・斗南藩市街地跡(斗南が丘)

↓2019.06.09 旧斗南藩墳墓の地

斗南藩陣屋周辺の地形を調べてみる

斗南藩陣屋(円通寺)は、田名部川と大湊湾によって形成された三角州性低地に位置する。

陣屋地形区分は「低地三角州」

●国土調査 地形分類図

斗南藩陣屋があった三角州地帯は、湾沿いの砂礫堆も含めて数千年前は海だった。海退が始まると主に田名部川が運ぶ軟弱な土砂を堆積しながら上流から徐々に陸地化していった。その過程で海沿いには沿岸流によって砂礫堆の微高地が形成された。砂礫堆の背後は潟湖の状態から陸地化していくが、せき止められているため低湿地帯となった。

 

●地理院地図 地形図+色別標高図で周辺地域の地形を見る

有名な恐山は釜臥山の後ろにある地域の名称。

も一つ有名な大間のマグロの大間町は、この地図から北西側の突端にある。

むつ市芦崎は、ちょっと珍しい砂嘴(さし)地形である。砂嘴とは沿岸流により運ばれた漂砂が海に突き出して堆積した嘴 (くちばし) 形の地形のこと。砂嘴の先端が伸びて陸地とくっつくと砂州と呼ばれ、内湾は潟湖(ラグーン)となる。

 

●旧版地形図(大正6年発行)

田名部市街地周辺は、東側に水田の他は荒地・湿地が目立つ

まだ鉄道が通っていない(大湊線開業は大正10年9月、大畑線開業は昭和14年12月)

 

●J-Shis Map 微地形区分

上の地形分類図では砂礫台地となっているけど、こちらの地図では火山灰で覆われたローム台地の表現になっている。

 

●シームレス地質図

下北は火山灰土に覆われた不毛の地、とか良く書かれてるけど、この「非アルカリ性火砕流」がそれ、かな・・?

 

G-Banz 標高グラフ

陣屋があった円通寺は大昔からの由緒あるお寺と思うけど、こんな低地で洪水とかなかったのか・・