陸奥国 会津藩

戊辰戦争時の会津藩について

会津藩:家門 28万石 Wikipedia

居城:福島県会津若松市 若松城(鶴ヶ城、地元以外では会津若松城とも) Wikipedia

城郭構造:梯郭式平山城

開戦時藩主:松平容保(かたもり当時32歳) ※美濃高須藩松平家出身。御三家尾張藩14代藩主徳川慶勝は実兄、伊勢桑名藩主松平定敬(さだあき)は実弟。

藩主家の変遷:上杉家→蒲生家→加藤家→寛永20年(1643年)、出羽山形藩より3万石加増の23万石で保科正之が入封

降伏月日:明治元年9月22日(1868年11月6日)

戊辰戦争への対応:京都守護職を引き受けたばっかりに貧乏くじを引き、薩摩に裏切られ長州に恨まれ、ついには逆賊呼ばわりされて討伐対象になった悲劇の藩。会津戦争終結後はさらに悲惨な斗南藩移住が行われた。松平春嶽に乗せられ、徳川慶喜に裏切られ、勝海舟に無視された。なんで誰も暖かい手を差し伸べてくれなかったんだろう。

25万石減封の上、斗南藩(青森県の下北、三戸地域)3万石へ移封。

会津藩訪問記

2018年6月14日

若松城→向羽黒山城(続100名城)→伊佐須美神社(新一の宮)→裏磐梯

※やっと100名城スタンプをゲット

2013年10月13日

以前若松城と飯盛山を訪ねたことがある。今回は会津戦争史跡を中心に日帰りで。

母成峠→土津神社→猪苗代場跡→十六橋→戸ノ口原古戦場→強清水→滝沢峠→飯盛山→小田山(西軍砲陣跡)→鶴ヶ城周辺(会津戦争終結の地、西郷頼母邸跡、内藤介右衛門邸跡、日新館跡)→山本八重生誕の地(通過だけ)→中野竹子殉難の地(通過だけ)

※すっかり日が暮れて予定通りに行けなかった。おまけに帰りも大渋滞・・・

2018年6月14日撮影
2018年6月14日撮影
2013年10月13日撮影 道路奥に小さく見えるのが若松城
2013年10月13日撮影 道路奥に小さく見えるのが若松城

●フォトギャラリー  2018年6月14日  ※クリックで拡大

 

●フォトギャラリー  2013年10月13日  ※クリックで拡大

・母成峠

・土津神社

・亀ヶ城跡

・戸ノ口原古戦場跡

・白虎隊自陣の地

・小田山西軍砲陣跡

・若松城周辺

 

●鶴ヶ城縄張り図

余湖さんのホームページより(お城情報満載のHP。図の掲載許可取得

 

●若松城天守東南面之図1873年 国立公文書館HPより

明治6(1873)年12月、若松県(現在の福島県北部)権令沢簡徳は右大臣岩倉具視に、戊辰戦争で砲弾をうけ、その後修復もされずに雨ざらしになっている若松城は見るに堪えないので撤去し、後日改築してほしい旨建白しました。その際、現状を知らせるために提出したのがこの6枚のガラス湿板写真です。若松城は翌明治7(1874)年7月に解体されます。本写真の含まれる「公文附属の図」は、平成10年「公文録」とともに、国の重要文化財に指定されました。

会津藩若松城周辺の地形を調べてみる

会津藩若松城(鶴ヶ城)は会津盆地の東南に位置し、地形的には「扇状地」あるいは「低位台地」。
お城地形は「台地先端」 →としていたが、会津若松市街地は東の山地から流れる湯川、不動川等によって形成された扇状地ということで、「低地扇状地」に変更。(2016.07.18)

会津若松の歴史、地理、町並みについてはこちらのHPがかなり詳しい まちあるきの考古学

 

地理院地図 地形治水分類図 更新版

北に流れる阿賀川が広い扇状地と氾濫平野を作り、東西の山地から阿賀川に向かって流れる河川が山麓に段丘面(扇状地)を形成したのであろう。

 

●地理院地図 地形図+色別標高図

会津若松地域は南北に長い盆地上にある。阿賀川は北に向かって流れ、西に折れて新潟県に入ると、阿賀野川と名前を変えて日本海に至る。

 

地理院地図 地形治水分類図 初版

 

●国土調査 地形分類図

 

●J-Shis Map 微地形区分

 

●シームレス地質図

 

G-Banz 標高グラフ

東から西に向かって緩やかに下っている。扇状地的。