豊後国 府内藩

府内藩について

府内藩:譜代 2.2万石 Wikipedia

藩主家の変遷:豊後府内は大友氏の居城であったが、大友吉統は文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたとされ、豊臣秀吉の怒りを買って改易された。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主の竹中重利ははじめ西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康から賞されて高田1万石から府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。重利の跡は子の重義が継いで徳川秀忠の寵を得たが、寛永11年(1634年)、罪を得て改易された。

代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、明暦2年(1656年)に無嗣改易された。

その後、吉明の義理の甥(正妻の兄弟の子)にあたる大給松平家の豊後高松藩主松平忠昭が2万2200石と徳川幕府天領の管理を受け明暦4年(1658年)2月24日に入封。以後は大給松平家が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。

 

居城:大分県大分市 府内城(大分城、荷揚城、白雉城)Wikipedia

城郭構造 :梯郭式平城

天守構造 :4重(1607年築 形式は不明) 非現存

築城主 :福原直高

築城年 :1597年

主な改修者 :竹中重利

主な城主 :竹中氏、日根野氏、大給松平家

廃城年 :1872年

遺構 :石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡(天守台)

指定文化財 :大分県指定史跡(石垣、土塀、堀、櫓2棟(宗門櫓、人質櫓)、櫓跡1(天守台)) 大分市指定史跡(県指定部分を除く城地)

再建造物 :二重櫓3棟、大手門、土塀、廊下橋

 

幕末藩主:松平 近説(ちかよし 当時39歳)

戊辰戦争への対応:藩主近説は、豊前・豊後の諸藩のなかで唯一、幕閣に列している。慶応4年(1868年)2月6日、若年寄を辞職した。同年3月20日、松平姓を大給に改めた。同年3月25日、恭順の姿勢を示すため上洛したものの、謹慎を命じられた。中川久昭を仲立ちに謝罪する。同年5月13日、謹慎をとかれる。同年7月10日、ようやく帰藩を許可される。

府内藩訪問記

2019年6月1日訪問

府内城跡→臼杵城跡→臼杵摩崖仏→西寒多神社→豊後国分寺跡→柞原八幡宮→日出城跡

 

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↓朝の散歩で、南側昭和通りからスマホで撮影

 

●府内城縄張り図

余湖さんのホームページよりお城情報満載のHP。図の掲載許可いただいてます

府内城周辺の地形を調べてみる

お城地形区分は「低地氾濫平野」

●地理院地図 ベクトルタイル提供実験 地形分類図

 

●地理院地図 地形図+色別標高図